plateau booksのブックレビュー閲覧ランキングまとめです。
・スガダイロー 『ピアノ曲集 季節はただ流れて行く』 (VELVETSUN PRODUCTS、2018)
・細川亜衣 『朝食の本』 (アノニマスタジオ、2019)
・山内マリコ 『選んだ孤独はよい孤独』 (河出書房新社、2018)
・大崎清夏 『新しい住みか』 (青土社、2018)
・細馬宏通 『介護するからだ』 (医学書院、2016)
・今和次郎 『思い出の品の整理学』 (平凡社、2019)
・堀江敏幸 『戸惑う窓』 (中央公論新社、2019)
・鈴木菜々 『うぐいすと穀雨のパンとお菓子』 (グラフィック社、2019)
・ジェリー・Z・ミュラー 訳:松本裕 『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』 (みすず書房、2019)
スガダイロー 『ピアノ曲集 季節はただ流れて行く』 (VELVETSUN PRODUCTS、2018)
ある季節にはこれだという曲があって、その時期に街中に行けば、いやというほど耳にする。たいていは、歌詞やタイトルに、季をあらわす言葉が使われているだろう。でも、そんな音楽たちとは、まるで関係がないかのように、季節はあっという間に流れて行ってしまう。季節のめぐりは、暮らす環境も、見せる景色も変えて行き、そこから生きものたちは、たくさんの刺激を受けている。ひとつの年をいくつかの節に分けたのは、ひとの恣意かもしれないが、分けたことで季節が見え出す。季節と寄り添うことができる。節と節との間から、また、あたらしい音楽が聴こえはじめる。
細川亜衣 『朝食の本』 (アノニマスタジオ、2019)
朝も昼も夜も、食事は毎日のこと。それでもそれぞれの過ごす時間が異なるから、食事の性格も違っているように思える。1日のはじまりとなる朝は、仕事の日はあわただしくも、休みの日はのんびりとしながら、あらゆることのきっかけとなる時間になる。そしてきっと、だいたいはいつも食べるものを口にする。「いつも」だから、別のあり方にも憧れる。主食となるもの、それを華やかに味付けたり彩ったりするもの、ある場所や季節だけのもの。朝食を、楽しみ続けることが、できているだろうか。
山内マリコ 『選んだ孤独はよい孤独』 (河出書房新社、2018)
どこにでもいる人、どこにでもある暮らし。そこにはどこか、淋しさや虚しさが漂っている。しかも、当人もそのことをうっすらと自覚していて、かといってそこからどうやって抜け出せば良いのかは分からないのだ。分かっているならもっと前から行動しているはず、あるいは、結局はどう動いたって行き着く先は一緒だろうと、そんな想像もできる。そんな人たちを見下すも、共感するも、実際に感じている日々の空気感は似たようなものではないだろうか。あるあると頷いて、同じようにはならないようにと頭に入れる。本当に、自分たちを肯定できるときは来るのだろうか。
大崎清夏 『新しい住みか』 (青土社、2018)
いろいろなものが、日々更新されていく。行き着く先がどこだか知らずに、乗り換えをし続けている。だから、変化しているとは言えないのかもしれない。ほんとうに新しいことには、たくさんの抵抗勢力がいる。いまのままでいいんだと、ぐいと引っ張られ、せまいところに押し込まれてしまう。どうしてこのままなんだろうかと尋ねても、返ってくるのは人間の理由。だれもが心地良い場所はむずかしいけれど、探していた土地ははじめられる。いたるところに凸凹はあっても、平らだから安心できると、そう思っている。
細馬宏通 『介護するからだ』 (医学書院、2016)
ひとりでも、複数人でも、何気なく済ましている行動はたくさんある。歩く、自転車に乗る、なぜそれができるのかと、よく考えてみると分からない。できたときには、一生懸命思い描いていたやり方も、どこでつまずいていたのかさえも、すっと立ち消えてしまうかのよう。しかし、できないひとをできるようにする、あるいは、誰かと一緒に共同でなにかを為そうとすれば、この分からない部分こそが大切になるだろう。当事者だから感じること、当事者じゃないから見えること。観察は、単なる手段ではない。
今和次郎 『思い出の品の整理学』 (平凡社、2019)
年のおわりには、身の回りの掃除や片付けをして、要らなくなったものを捨てる。ちかごろ、物をたくさん持っていることはあまり好まれることではなく、不要になればどんどん捨てることが勧められているから、迷うなら要らないだろうと判断して、ますます物を減らさなければと考える。要と不要が肝要なのだ。いまという時間は、ありとあらゆることによって、かたち作られている。全く無関係なものなんて、あるのだろうか。いまが堆積してできた思い出は、「要、不要の圏外」にある。分別がつく人格なんだからと、物も記録も、次から次へと手放すうちに、大切なことまで失なっているのかもしれない。
堀江敏幸 『戸惑う窓』 (中央公論新社、2019)
窓のない家はほとんどないが、窓が付いていても窓を感じられる家は少ない。どこにでもあるサッシを開けても、見えるものからこれといった感情を掻き立てられることもなく、その壁の穴を意識することもなくなって過ごしている。本当は、隔てられているはずのものが結びつき得る、不安定なところにもかかわらず。たとえとしての窓も、現実にある窓も、等しく並んで見えてくると、行為のベクトルが通り抜ける、その通り道で立ち止まることができるのかもしれない。ひとが描いた景色、自分が覗き見た光景、吹き込んできた風、漏れ出た灯。どの窓の前で、佇んでいるのだろうか。
鈴木菜々 『うぐいすと穀雨のパンとお菓子』 (グラフィック社、2019)
パンと朝ごはんは、親和性がとても高いように思う。あの香ばしい匂いで、一日のはじまりを感じるひともいるだろう。となると、パンが作られるのは、朝より前の時間帯になるのだろうか。生地を捏ねて、寝かせて、形をつくり、焼き上げる。食べるときから遡った、時間を漂う。それはまだ、日の昇らない暗い時間から、次第に空が白み始めてくる、そんな変化の時空を想像する。寒さを耐えた冬の季節から、暖かな春の陽気に身体をゆるめていくような。その境目は、創造のみなもと。そしてまた、のびやかに、今日を生きる。
ジェリー・Z・ミュラー 訳:松本裕 『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』 (みすず書房、2019)
結果がどうだったのか、数字で見れば、たしかに分かりやすい。点数をつけて評価をすれば、たぶんそこには及第点がもうけられて、それを達成することがなにより優先すべきこととされる。そう、なによりも、きっと。上のほうには、数字だけを見ているひとがいる。そのひとたちの言うことは絶対だ。だから体裁が良くなるように点数の付け方を少しいじってしまえば、という声が聞こえる。どうせ詳しく中身なんて見ないのだから。数字はいつも外側にあって、簡単にそちら側に引っ張られてしまう。そうしてたどり着いた現実で、何が得られたのだろうか。