文字にも速度があります。話し言葉がそうであるように、早口だったり、ゆったりとした口調だったり、文字が音として響きだすと、それに気付かされます。事実が報告され、情報を摂取する、声も調子も間もなにもない、それが優先されているのですから。鉤括弧がついているから、台詞だから、訛りまで綴られているから、それだけで声が聞こえるのではありません。克明に記されたことをまさに身をもって体験しながら、その場所のひとびととは違う立場であることを再認識する、その往来。響の波のなかで、どこに舵を切るべきなのでしょうか。
文字にも速度があります。話し言葉がそうであるように、早口だったり、ゆったりとした口調だったり、文字が音として響きだすと、それに気付かされます。事実が報告され、情報を摂取する、声も調子も間もなにもない、それが優先されているのですから。鉤括弧がついているから、台詞だから、訛りまで綴られているから、それだけで声が聞こえるのではありません。克明に記されたことをまさに身をもって体験しながら、その場所のひとびととは違う立場であることを再認識する、その往来。響の波のなかで、どこに舵を切るべきなのでしょうか。