言葉遣い、動き、見た目。どれをとっても日常とはかけはなれていて、そのままでは理解できそうもない、固まった能のイメージがあります。時代が変化していくなかで、能も変化しながら今日まで存在してきました。その理由が、能そのものに仕掛けられていたようです。安田登さんは、「受け止める自分の内部で起こる変化を認識し、変化の熟成を望む人にとってこそ能は存在する」と言います。つまり、消費するように観て楽しむ、そこには能は存在しません。絵画を見る、料理を味わうために訓練が必要なように、これまでの自分を裁ち切る必要があるのかもしれません。